不眠日記

寝れない夜に書く日記

『トゥルーマン・ショー』を観た

最近聴いてるラジオ番組で参照されていたのをきっかけにして、『トゥルーマン・ショー』を観たので、その感想などを雑に書く。

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こういう寓話的、メタ的な話好きだなーと思った。*1

ラストシーンの天の声や、トゥルーマンのセリフ、"Exit" へ去るという抽象的な結末、終劇後の視聴者の態度などから、キリスト教的な寓話性、そして社会批判的なものを感じて、何を言わんとしているのかを考えるなどした(そういうのを考えるのも野暮なんだよなあとも思いつつ)。大枠としてはキリスト教的(父権主義的?)世界観からの脱出、そして映画視聴者に対するメタ的な批判ということになるのだろうか。劇中の視聴者たちの存在は結局のところよく分からなかった。映画視聴者に対する批判のための装置以上の意味はないのか。

自分の脳内で考えられることでは理解しきれないと感じ、インターネット上の考察記事を漁り、読む意味が多少なりともあるなと感じた記事に関しては以下のスレッドにメモした。

トゥルーマン・ショーについて、冒頭で書いたラジオ番組での参照に出会う間に、以下の記事を読んでいたことを思い出した。

itoh-archive.hatenablog.com

以下の論文は映画中の音楽について主に述べているが、各シーンの含意についても多く記述されている。

解放の視聴覚プロセス ―― 『トゥルーマン・ショー』を例に ―― 

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我々も人生の中で「トゥルーマン・ショー」を堪能しているのだよな、と思った。

これはリアリティー・ショーの話をしているのでもなく、VTuber の話をしているのでもなく、もっと広く SNS の話をしているのでもない。我々は生身の人間との会話を通して、エッセイを通じて、芸能人のゴシップを通じて、映画を通じて、小説を通じて、アニメを通じて、生身の・あるいは虚構の人間の人生を日常的に消費している。

つまり、人間の人生は元々我々にとってエンターテインメントである。その手段として小説があり、ゴシップがあり、映画があり、エッセイがあり、飲み会がある。

違いがあるのはその人生に対する他者の介入がどの程度であるかという点と、その人物が実在するか否かという点だ。エンターテインメントを楽しむという行為においてそれは大きな問題ではない。我々は、飲み会において語られる「友達の友達の話」と、映画の主題となった人物の話を(もちろん話のスケールとか稀有さとか語り口のうまさとか、そうしたディティールは異なるにせよ)区別して楽しんでいるだろうか?少なくとも私はそのような "倫理的な" 楽しみ方をしていない。

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長々と書いたが、トゥルーマン・ショーは面白かったし、この映画を観たあとの私は、他人の人生をトゥルーマン・ショーの枠組みで受け取るようになってしまったという話です。

様々な映画の楽しみ方はあると思うけど、影響を受ける度合いの大きい楽しみ方をできたという点で印象深い映画でした。